【SE 適応障害】こうして私は適応障害になった。女SEの本音。

適応障害の実話

はじめに

私がどうやって適応障害になったのか、言える範囲で詳細に残しておきます。

はじめに理解していただきたいのですが、私は適応障害になったことを恨んだりはしていません。誰かが悪いわけでもありません。

例えば、この記事を読み進め、適応障害の責が私や会社にあるように感じられる事もあるかもしれません。しかし、それは違います。誰に責があるわけでもありません。なるべくしてなった、という表現が正しいです。自分で自分に責がないなんて言うのも変な話ですけどね。

それを踏まえて読んでいただければ幸いです。

自己紹介

私は27歳まで営業事務として働いていた普通の女です。
営業事務では女性の従業員が多く、他愛もないおしゃべりをしながら仕事をしていたものです。居心地はとてもよく、やりがいもありました。今でもここでの同僚や先輩とは遊びに行ったり、仲もよいです。もしできるなら、ここで働きなおしたい。そう思えるくらい素敵な職場でした。

しかし、一つだけ。お給料は残念ながら良いとは言えませんでした。
一人暮らしをするのにもギリギリ。友人にお祝い事があっても、満足にプレゼントを送ったりもできない状態でした。私には経済的に頼れる身内もいません。何かあれば自分で身を立てなければ。

アラサーになり、将来を考えた結果、わたしは居心地の良さとお金を天秤にかけ、お金を取りました。転職をしたのです。この決断を悔いてはいませんが、どこかやるせなさは未だに感じています。

営業事務を退職し、IT業界に飛び込みSE(システムエンジニア)になりました。理由は簡単。自宅で仕事をできるようになりたかったのと、給料が良いからです。なんとなくかっこよさそう、というイメージも強かったかもしれません。

特にこういったモノづくりをしたいなど、きちんとした柱もなくIT業界に飛び込みました。私が適応障害になったのは、このあたりの土台がなかったからかもしれません。まあ、人によりますかね。


最初はわりと楽しかった

IT業界に入り、約1年半くらいたったころ。新しい現場に入って1ヶ月程たったころです。

「新しい現場」というのは、新しい客先に派遣された、ということです。私が在籍している会社はSESとよばれるIT業界の人材派遣会社です。私は新しい客先に派遣され、そこに常駐して仕事をすることになりました。

このころは開発SE(システムを開発する人)として1年たたないくらい。この業界では、まだまだひよっこエンジニアです。

新しい現場は若い人が多く、前の職場みたいに賑やかではありませんでしたが、和やかな雰囲気で、居心地も悪くありませんでした。業務内容もなんとかついていける内容でしたので、とくに心配ごとなどはありませんでした。この時は。

そこにやってきたのがコロナです。

コロナがはやり始め、早急にテレワークが導入されました。
作業場所は自宅で、業務内容のやりとりはチャットツールを使用。もともと業務中のおしゃべりなどはあまりない現場でしたので、この時点では業務で困ったことなど特にもありませんでした。

むしろ自宅で仕事ができることに喜びを感じていました。
わたしがIT業界に入った理由の一つが、自宅で作業ができるようになりたい、ということです。本当はしっかりと実力をつけて、自分で仕事をとって、自宅で作業をする…というのが夢でしたが、まあどんな形にせよテレワークが叶った事は嬉しくありました。

このころ、こんなニュースが流れていたのを覚えています。

「テレワークの導入により、自殺者が減少」

このニュースを見たとき、私は納得しました。それはそうだろう、と。
毎日満員電車に長時間揺られて通勤するだけでも憂鬱なのに、会社でめいいっぱい働いて、また満員電車で帰宅する。それだけで終わる1日の何が楽しいのだろう、と。

今でもこの考えは変わっていません。テレワークは引き続き導入されるべきだと考えています。ただし、運用方法はもっと考えていかなければならないと感じました。それはまた後ほど…。

こんな感じで、新しい現場に入って半年ほどは楽しく働けていました。
テレワーク最高!と。


新しい案件に取り組むことになった

新しい現場に入って半年ほど。
私は新しい案件に取り組むことになりました。この現場の特徴として、小さな案件を、基本一人ひとつ(時には複数)受け持ち、短期間でどんどんこなしていくスタイル、という現場でした。

そのため、自分が受け持っている案件以外のことは、内容も把握していません。逆に言えば、私が受け持っている案件のことも、チームの人でさえ、誰も概要すら把握していないということです。

私は前任者の案件を引き継ぐことになりました。
この時に、少し嫌な予感はしていたのです。

なぜなら、前任者はこの現場に入って初めてこの案件を受け持ち、そしてしばらくしたら休みが続き、そのまま退職してしまったからです。

退職理由は「心身障害のため」でした。

前任者の彼は、この現場に来た頃には既にテレワークが導入されていましたので、最初の環境構築(PCのセットアップみたいなもの)の時だけ出社し、それ以降は自宅で作業していました。

質問などは適宜、チャットツールで行っていましたし、先輩SEもよく相談にのっていたため、スムーズに案件が進んでいると思っていました。そのため、傍目からみても、本人が仕事をやめたくなるほど追い込まれているとは気づけませんでした。

よく考えれば、本人の声をきくのは毎朝の朝礼ミーティングのWEB会議のみ。それも10分にも満たない時間。あとは雑談などもなく業務内容をチャットでやり取りするのみ。

これでは本人の状況などわかるはずもありません。

なぜ彼は退職してしまったのか。このIT業界が肌に合わなかったのかもしれない。当時はそう思うことにしました。なぜなら、「他人事」だからです。自分の案件もあるのに、よその心配をできるほど、私にも余裕はありませんでした。

この時の私の考えは、そっくりそのままチーム全体の考えであることに、当時は気づけませんでした。

消えた前任者の姿がやっとみえた

さっそく前任者の案件を引き継ぎ、取り組みました。

彼が作成してくれた提出用資料が10個ほどありましたが、残念ながら殆どが作成し直しになりました。先輩社員も相談にはのってくれていたようですが、資料の確認までは行っていなかったようです。内容が方向性の違うものになっていました。

しかし、私には前任者が必死に仕事をしていたことがわかりました。

この案件は傍目からみると、規模が全くわかりませんでしたが、実際に蓋を開けてみると一人で担当するにはとても作業量が多いのです。それをたった一人で、しかも初めての案件でしたので勝手もわからず、責任を感じながら取り組んでいたであろう姿が目に浮かびました。

そうでなければ、10の資料を作成することはできませんし、下調べのための大量の調査資料も作成することはできないでしょう。

本当はここで彼はSOSを積極的に周りに出すべきだったのかもしれません。作成した資料を先輩に確認してもらうべきだったと思います。しかし、基本的に一人ひとつ案件を請け負うというスタイルと、方向性が違うながらも一応資料作成は進んでいたことで、自分だけで解決すべき、解決できると考えたのかもしれません。

チームの雰囲気は悪くはありませんでしたが、仲がいいとは言える間柄でもありませんので、気軽に「ちょっと難しいです~」なんて言える状態でもありませんでした。

私は彼と直接顔をあわせて話したことは一度もありません。WEB会議のみです。

けれど、彼が残していった資料をみて、少しだけ彼の姿が見えたように感じました。

おしゃべり上手ではないし、ちょっと不器用そう。でも、真面目で頑張り屋。なんとなくですが、そんな姿が見えた気がします。

兎にも角にも、彼の残してくれた調査内容を参考に、提出用資料を作成し終えることができました。しかし、この段階でこの案件は終わりではありません。作成した資料に基づき、プログラムを作成していくのです。いわゆる「開発」と呼ばれる仕事です。

この開発段階で私は適応障害を発症しました。


案件に取り組む前に不安には思っていた

開発を始める前に、私は先輩社員に不安を打ち明けていました。
本当に私一人でこの案件を受け持てるのか。

今までも開発SEとして働いてきましたが、完全に一人でひとつのプログラムを作成するのは初めてに近いものでした。いつも先輩SEが近くにいて、相談しながら進めていたからです。

また、私が経験してきた開発は「WEBアプリ」というものが主でした。例えば、インターネットで買い物ができるECサイトや、商品の在庫管理などを行える企業向けHPなど、WEBページを操作するシステムが主でした。

しかし、今回は情報解析ツールの作成です。
与えられた情報をパズルのように組み合わせて、解析結果を出力する。そんなシステムは作成したことがなく、案件に取り組む前段階でかなり尻込みしていました。なにをどうすればいいかイメージができなかったのです。

その旨を相談しましたが、そうは言っても先輩たちも別案件を受け持っているため、「じゃあ一緒にやりましょう」と言える状態ではありませんでした。

結果、でた結論は「困ったときにはきいて下さい。全面的にサポートしますので。」

この段階では一番おさまりのいい結論です。しかし、これで私の不安が消えることはありませんでした。だって問題は何一つ解決していないからです。とにかくやってみなくては始まらないので、私は不安を抱えながら開発に着手しました。

難航する開発

開発を始める段階で、この案件はかなり進捗が遅れていました。前任者がお休みしていた分や、資料の作成のし直しなどがあったためです。そのため期日を考えると、一日も無駄にすることはできませんでした。

さっそくプログラムを作成していきますが、まあ壁にぶつかることぶつかること。わからない事はチャットでききますが、それでも足りないくらいわからない事が沢山でてきます。都度調べて、作成して、失敗しての繰り返し。

正直、先輩に手伝って欲しいくらいでしたが、ちょうどそのころ、先輩の案件も佳境を迎えており、私の細かい面倒までみれる余裕はなさそうでした。質問をしても、具体的な返答ではなく、「ひとまずこういう事なので、あと調べてみて。わからなかったらまたきいて」という返答が多くありました。仕方がない事です。自身が受け持っている案件を、まず優先するのは当然だからです。

このあたりでちょっとずつ私のメンタルが不安定になってきますが、まだ働ける状態ですし、少しストレスが溜まっているくらいにしか考えていませんでした。

開発SEが新しい事に取り組んで壁にぶつかることなんて当たり前の事ですし、日々勉強、毎日新しいことを吸収していくような仕事です。これくらいのストレスは音を上げるようなものでもありません。現に、今までの仕事もそうやって乗り越え、学んできました。いや、だからこそ、今までのように頑張らなければいけない。できなければいけない。その思い込みが私を追いつめているとも知らずに。

不安定になっていくメンタル

開発に着手して数日は、ストレスを抱えながらも、わりと元気でした。しかし、日に日に仕事への意欲、というのでしょうか。「やりたいこと」ではなく「やりたくないけど働かなければ」という思考に変わっていきました。

連日、残業しながらも進まない開発。その原因は明らかに私のスキル不足です。
今まではスキル不足の場合、自分で調べて解決できないことは隣にいる先輩にきいて解決してきました。しかし、今回はなかなかそうもいきません。

リモートワークのため気軽にきくことはできず、先輩も自身の案件に追われ、そして期日は迫っている。

なにより一番こたえたのが「孤独」です。

営業事務の頃は仲のいい同僚が沢山いたので、「まじやばいっす。終わんないっす。」「つかれた~」など気軽にSOSや愚痴を言うことができましたし、そういったSOSが飛んで来たら私もすぐに助けにいけました。けれど、この現場には半年ほどいましたが、そういった仲のいい同僚は一人もいません。

また、私の在籍している会社はSESということもあり、同じ会社に在籍していながらも、同僚や先輩とは一度も会ったことがありません。みんな別々の現場で働いているからです。自社で知っているのは営業さんと人事担当の方くらいです。

つまり、その当時の私の仕事の人間関係は、立場上お客さんである別会社の先輩SEと、もう数か月も会話をしていない自社の営業、人事担当のみだったのです。

気軽に相談できる人がいない状況が、こんなにも辛いとは。弱音を吐ける相手がいないのが、こんなにも辛いとは。

気づけば私は泣きながら仕事をしていました。できない、終わらない、でもやらなきゃいけない。けれど、思えばこの段階では「適応障害」ではなく、ただえんえん泣きながら仕事をしている甘えん坊の状態でした。別に病気ではなく、ただ辛かっただけだった。それだけ。

適応障害になったのはこの後です。


死にたいと思うようになった

迫りくる期日に、私は決断を下しました。絶対に私ひとりでは終わらない。周りを巻き込む必要がある、と。

昔、誰かに教わったのです。ひとりで仕事を抱え込んで、プロジェクトが期日に間に合わない事が一番あってはならないこと。きちんと同僚とコミュニケーションをとることが大切だと。

その教えに従い、私は本気のSOSを先輩に出しました。先輩もこれはマズイと思ったのか、本格的に開発を手伝ってくれる事になりました。先にも触れましたが、基本的に自身の案件の概要は、他の人は把握していません。よって、先輩が私の案件をしっかり把握するのはこの時が初めてになります。

私の作成したプログラムは、要件を満たしていませんでした。
どういうことかと言うと、端的に言えば不具合が多かったのです。ついでに言えば、まだ開発途中なので、まだまだ終わっていない箇所も沢山あります。もう何といっていいのやら…。

ここで、開発の主導権を先輩と交代することに。先輩が指揮をとり、私が手伝う。このスタンスで集中的に開発を進めていくことになりました。結果だけ先に伝えると、無事開発は間に合い、テストも終了。リリース準備も終わりました。全て先輩のおかげです。

しかし、メンタル的にはこの頃が一番こたえました。もしかしたら、開発が終わって、テストをしている段階が一番辛かったかもしれません。期日に余裕ができたぶん、色々と考えるようになってしまったからです。

先輩も自身の案件があるのに、こちらを手伝わせてしまった。今まで曲がりなりにも開発SEとして働いてきたのだから、これくらいできなければならないのに。私は何の役にも立っていない。私に価値はない。

私は、私自身を嫌いになりました。人に迷惑をかけて、自分は何にもできないで。私はこの先も先輩たちに迷惑をかけ続けるだろう。きっと別の仕事をしても、どこにいっても、私は何の役にもたたないだろう。

私は自分で自分の価値を徹底的に落としていきました。すると、不思議なことに「仕事を辞めたい」ではなく「死にたい」と考えるようになるんです。どうしてでしょう。きっとこの先に良いことなんてないと思うからでしょうか。

開発という仕事の事も嫌いになりました。やっていても何も楽しくない。このプログラムを作ったところで、誰が喜ぶの?今までこの仕事をしていて、上司にも、同僚にも「ありがとう」なんて言われたことがない。こんなこと、やりたくない。

そして、一番辛かったのは、私が「ひとり」だということです。

私が辛いということを誰も知らない。こんなポンコツなプログラムしか作れなかったけど、それでもどれだけ私が辛かったか、誰も知らない。今わたしが何を考えているか、誰も知らない。

私は、わたしが思っていた以上に「仲間」を欲していたようです。
一人では頑張れない。誰かと一緒じゃないと頑張れない人間。それが「わたし」でした。

テレワークという環境、一人ひとつ案件を受け持つという環境、気の許せる仲間がいないという環境。これらがそれを気づかせてくれたのです。

もしかしたら、心身障害で辞めていった前任者もこのように悩んでいたのかもしれません。一人で自分と戦っていたのかもしれません。でも、私は、私たちは一切気づく事ができませんでした。だって、「他人事」だから。

そう、わたしの悩みも、孤独も「他人事」だから、チームの誰も気づいていませんでした。

そして私は適応障害となりました。

具体的な症状は以下の通りです。

・仕事や将来の不安で、夜眠れなくなる。
・仕事中、急に泣いてしまう。
・体が重く、仕事への意欲が無くなる。
・SNSなどで「死にたい」と検索する、つぶやく。
・自死について深く考えるようになる。

死について考えるようになった頃、ようやく気づきました。これはただ気が滅入っているだけではなく、何かの病気なのだと。気づいてはいましたが、すぐには病院にいきませんでした。その時は作成したプログラムのテストの真っ最中だったのです。

どんなに死にたくても、この案件を無事に終わらせなければ、周りに面目が立たない。何より社会人として、途中で放り投げるなどあってはならない。

ここまで読んで下さった方はお気づきかもしれませんが、「○○してはならない」という思考が多いですよね。私はわたしに枷をかけるのが好きだったようです。だれもそんなこと言ってないのにね。


適応障害と診断される

無事に案件に目途がつき、一旦状況が落ち着きました。私は将来の事を考えました。もうこの現場の仕事は続けられないことはわかりきっていました。メンタル的にもスキルや環境的にもそれは難しい。なら別の現場に行くか。いや、それよりも休みたい。仕事を辞めたい。開発をしたくない。そう、開発をしたくない。

そう思っていた矢先、次の案件でまた新規開発が私にまわってきそうな話がでてきました。

その時、体が拒否反応を起こしたのをよく覚えています。嫌だ、嫌だ、嫌だ、と。プチパニックを起こしましたが、残念ながら自宅で一人、WEB会議でカメラや音声もOFFにしていたので、誰も気づいていませんでしたけど。

ここで私は病院へ行く決断をしました。今の現場を退き、休みが取れる正当な理由が欲しかったからです。そう、とにかく私は休みたかった。けれど、ただ「疲れました」で即休職がとれるとは思いません。何か病名が必要なのです。

ここから先は別記事でまとめると思うので端折りますが、病院へ行き「適応障害」と診察され、業務は難しいとの旨を記載してもらった診断書を先生に書いていただきました。そして、新規開発に着手する前に、私は現場を退き、休職に入りました。

適応障害と診断された後、私は「テレワークの導入により、自殺者が減少」というニュースが流れていたことを思い出しました。当時はそう信じました。私自身もテレワークが導入されて嬉しく感じたのをよく覚えています。

しかし、それではなぜ、私は今「死にたい」と思っているのか。

答えは誰もくれません。おそらく、この先ゆっくりと、もしかしたら一生かけて答えを探していくべき問題なのかもしれません。

この後もまあ色々ありましたが、ひとまず今は生きています。まあ本当に色々ありまして、在籍していた会社は退職しました。その話はまた後日…。

おわりに

これが私が適応障害となった経緯です。

ちなみに、前任者が退職し、私が現場を退く間に、もう一人退職した人がいました。メンタルを病んだわけではないようでしたが、IT業界自体から身を引いたようです。つまり、数か月の間に3人退職者が出たわけですね。怖…。

その彼も、前任者の彼も、どこかで元気にしているといいのですが。

私がメンタルを病んだのは、テレワークが悪いわけでも、誰が悪いわけでもありません。ただ、テレワークの運用方法については、まだまだ改善の余地がありそうですね。そのあたりもまた今度じっくり考えてみます。

適応障害になる原因は人それぞれですが、私の場合は「ひとりで頑張る」事が辛かったようです。それに気づけたので、今は適応障害になった事はそんなに悪いことではないかもしれないと思っています。適応障害と診断されずに新規開発に着手してたら、もしかしたら自死を選んでいたかもしれませんし。

もちろん、一度病気と診断されたわけですので、就活やら、生命保険に入れないやら、ローンが組みずらいやら、色々と不都合が付きまとうので、数日後には適応障害になったことを恨んでるかもしれませんがねw

さて、ここまでお読みくださりありがとうございました。
あなたもどうか無理はなさらず。この記事が少しでもあなたのお役にたてますように。

それでは、また!

あ、最後に過去の自分を少し褒めておこう。

案件を途中で投げ出さなかったのも、仕事を休まなかったのも偉い!
でも無理すんなよ!おつかれ!

それでは今度こそ。また!


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